<航海(100)〜《航海の果てに…(12)》>
ディフェンスにおいても
日本人選手の「個の自立」「個で戦う意識」の希薄さは変わらない。
もともとガチガチの「ディフェンス組織」を築くことを目的としたチームではなかったが
だからこそ…そうであるからこそ「ディフェンス面」における「1対1」の弱さ、
「対人プレー」のひ弱さがより一層際立っていたといえる。
一見「統率された組織」を築いてはいたが、
ボールを支配しているときとは裏腹に一旦「受身」を強いられると
人数が揃っていてもブロックすることが出来ずに相手の侵入を許してしまう。
囲んでいても潰しが利かないために
「個人技」を仕掛けられるとたちまちピンチにさらされる。
「個人技」に対しての「弱さ」、「もろさ」もまた
「攻撃同様」に従来から続く日本人選手の課題であり
これも戦術云々の次元ではなく「選手の意識」が大きく影響していると言っていい。
サッカーとは「1対1の局地戦」であること、
チームプレーとはいえ「1対1で負けない」こと、
1人1人にはそれぞれ「役割」と「責任」があるということが前提にもかかわらず
「1対1で戦う」意識が低いから止められない、
「1対1で止める」意識が低いのに「囲んで奪う」という意識だけが先行するから
プレスもマークも曖昧な中途半端なディフェンスになる。
数的優位な状況を作り囲んで奪う…
確かに基本的な原則としては間違っていないとは思うが
囲んで奪う「組織的なディフェンス」とは言っても
「1対1」で戦うことが何よりもまず前提にあって
それが出来てこそ初めて「組織的なディフェンス」が可能となるのだ。
ただ単に人数が揃っていていれば守れるわけではなく
「1対1で負けない」こと…
それがあって基本原則ともいうべき「囲んで奪う」という
「強固な組織的なディフェンス」を築くことができ、
「1対1」で戦う意識が低ければたとえどんなに人数が揃っていようとも
見てくれだけの機能性のないスカスカなディフェンスとなる。
これはディフェンスにしてもオフェンスにしても共通していることであって
「1対1」で仕掛ける意識が低いから攻撃は迫力が欠け、
相手にとって脅威にもならず、
「1対1」で止める意識が低いから容易に進入を許してしまう。
確かに「個の力」の問題も無関係ではないが
これらは日本人選手の意識の問題が最大の原因であって
どんなに高度な戦術を用いようとも基礎的な考え方であり意識が変わらない限りは
すべてが上辺だけをマネた「形」だけに囚われたものとなるのである。
一定の進歩と可能性を感じさせていたサッカーも
意識的なものが変わらないために「戦術」「組織」「理屈」的なものばかりが先行した
「体裁だけを整えたようなサッカー」に成り下がる。
もはや意識改革なくして日本サッカーが成長しないことはハッキリしており
オシムも意識改革に取り組んでいたのかもしれないが
選手を「アマチュア」と弾じたことからも
体質的なものを変えることがいかに難しいことであったかがよくわかる。
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